薬師寺や中鉢美術館などに寄せられたご質問から抜粋してお答えします。
類似する質問については質問内容を要約し、まとめてお答えさせていただきます。
※Q&Aは順次更新致します。
薬師寺や中鉢美術館などに寄せられたご質問から抜粋してお答えします。
類似する質問については質問内容を要約し、まとめてお答えさせていただきます。
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【2016/3/23更新】
A.
ヤスリで強引に削り取られたり、タガネで鉄を寄せて、その上からヤスリで平らにしたり、ハンマーのようなもので叩いて平らにしたり、様々な方法で消されています。
※
2016年薬師寺で開催された「噂の刀展」では、消された実物が展示されました。
A.
村正の「村」を消して、下に「宗」を入れて正宗(まさむね)としたものや同様に正家(まさいえ)としたものなど様々なものがあります。なお藤正(ふじまさ)は、村=紫色=藤の花の色と洒落て「藤正」としたという有力説があります。(消されたり修正された銘ではなく、始めから打たれた銘です)
※
2016年薬師寺で開催された「噂の刀展」では、正宗に改銘された実物が展示されました。
A.
別の銘になったものがあり、数振り所蔵しています。
※
2016年薬師寺で開催された「噂の刀展」では、村正の二文字とも削り取られ、“包真”と銘が打たれたものが展示されました。
A.
平安城長吉は何代かに渡って同じ銘を切っています。
初代村正の師匠の作品も展示していますが、おそらく二代村正の弟子とされる平安城長吉の作も展示しています。
京都の平安城長吉家と村正家には技術交流があったようです。
他にも美濃(岐阜県)や島田(静岡県)の鍜冶とも技術交流があったらしく、よく似た作品を見ます。
【2016/3/22更新】
A.
メジャーな刀の生産地ではありません。
田舎鍜冶だという評価もあります。
しかし現物の日本刀を見ると、かなりの腕を持つ刀工といわざるを得ません。
応仁の乱以降争いが増え、多くの日本刀を必要としました。そのため「切れれば良い」というレベルの実用刀が大量に生産されました。
この戦乱の時代は粗製乱造された刀がある反面、入念作も存在します。同じ作者銘でもかなり出来具合に差があります。
村正はその時代にあっては、かなり健闘した刀工ではないかと思われます。
A.
初代、二代は有能であり、特に二代が腕利きの刀工だといわれています。
三代になるとかなり粗雑で地が粗くなり二代よりは劣るとされますが、中には入念な作も見受けられます。
A.
実物から判断すると本当のようです。
江戸時代には生きていたわけではないので心情的なところまでは分かりかねますが・・・(笑)